フラーレン生成にはクラスター成長、異性化、脱励起、熱分解など実にさまざまなプロセスが関与している。とりわけ熱的な異性化反応「アニーリング」は安定なフラーレン構造を形成するうえで重要である。その根拠として炭素原子の供給と熱的な効果とを独立に制御する「レーザー・ファーネス」の実験において、室温で生成したススにはC60が全く含まれず、1200℃前後の高温条件下でのみC60が生成することが挙げられる[1]。高い雰囲気温度のもとで成長途中のクラスターの幾何構造が変化するものと考えられるが[2]、では熱を加える前のクラスター分布は一体どんなものであろうか。本研究の目的は炭素棒のレーザー蒸発で生成する炭素数3〜30の中性クラスターの分布を構造異性体レベルまで正確に決定する実験的手法を開発し、生成条件の違いによる異性体比の変化から炭素クラスターの生成機構を明らかにすることである。
炭素クラスターの構造異性体の研究はこれまでに負イオン光電子分光によるものがあり、中性クラスターの振動構造の一端が明らかにされた[3,4]。一方、極低温固体中に分子を補足するマトリックス分離分光法が60年代以降中性炭素クラスターの研究に大きな成果を挙げてきた。直鎖構造のクラスターについては炭素数21までが電子または振動吸収スペクトルによって識別可能となっている。電子スペクトルの帰属は90年代に入って急速に進展したが、その背景にはマトリックス分離前に予めクラスター負イオンをサイズ選別する技術の導入があった。そこで本研究ではまずマトリックス分離法とサイズ選別法との組み合わせを実現し、さらにレーザー蒸発法によるクラスター発生源をこれに組み合わせることにより、過去に例のない環状炭素クラスターの電子吸収帯の帰属をめざす。
現時点で得られる吸収スペクトルは炭素棒のレーザー蒸発によって生成した中性クラスターを直接ネオンマトリックス中に補足して測定したものであり(図1)、ここに観られる多数の吸収帯はこの試料が多種類の炭素クラスターの混合物であることを意味する。吸収帯の幾つかはC3等の直鎖構造のクラスターに帰属できるが、235nmにピークをもつ強い吸収帯の帰属が依然あいまいであるなど、このスペクトルには多くの未解決の問題が残されている。われわれはこの未同定の吸収帯が環状構造の炭素クラスターに由来するものと考え、その実験的検証のため上記装置の開発を急いでいる。われわれの仮説の根拠として、同様の実験条件下で生成した中性炭素クラスターの質量スペクトル(図2)に、C10、C14、C18に対応するピークが強く観測されることが挙げられる[5]。この4n+2というマジックサイズは、環状構造の中性クラスターを仮定した場合にπ電子の安定化が期待されるというヒュッケル則と矛盾しない。現在製作中の装置によってマトリックス中の電子吸収帯とクラスターサイズとの対応が直接的に明らかになる。その結果はフラーレン前駆体の生成量を決定するための基礎的データを与える。
参考文献
[1] T. Wakabayashi, D. Kasuya, H. Shiromaru, S. Suzuki, K. Kikuchi, and Y. Achiba, Z. Phys. D 40, 414 (1997).
[2] T. Wakabayashi and Y. Achiba, Chem. Phys. Lett. 190, 465 (1992); ibid. 201, 470 (1993).
[3] T. Wakabayashi, M. Kohno, Y. Achiba, H. Shiromaru, T. Momose, T. Shida, K. Naemura, and Y. Tobe, J. Chem. Phys. 107, 4783 (1997).
[4] T. Wakabayashi, T. Momose, T. Shida, H. Shiromaru, M. Ohara, and Y. Achiba, J. Chem. Phys. 107, 1152 (1997).
[5] T. Wakabayashi, T. Momose, and T. Shida, J. Phys. Chem. 111, 6260 (1999).